楠本保


楠本保

楠本保(くすもとたもつ 1914年12月19日生)
 [野球選手]


  甲子園大会において「不世出の投手」と称えられ、「世紀の剛球投手」として名を馳せた。また、強打でも鳴らした。右投げ右打ち。兵庫県出身。魚住第二尋常高等小学校に入学してまもなく野球を始めた。その剛速球は早くから有名で「明石の怪童」と呼ばれ、1927年楠本が12歳の時に、全国少年野球大会出場をかけて予選で対戦した相手の赤石尋常小學校が「楠本の球は振っても当たらない」と徹底的にバント攻撃を仕掛けた、という逸話が残っている。

 1929年、兵庫県立明石中学校に入学し、野球部に入部。1930年春、1931年春、1932年春・夏、1933年春・夏の計6回の甲子園出場を果たした。この間、1932年の第9回選抜大会で広陵中相手に大会初の先発全員奪三振(13個)を記録したのを皮切りに合計3度にわたる先発全員奪三振を記録、これは現在に至るまで単独最多記録である。同年夏の第18回大会では、準決勝で松山商業に0-3と敗れたが、この試合でも被安打はわずかに2、奪三振は17個で、大会通算奪三振64個の記録を達成した。1933年の第10回選抜大会の準々決勝で沢村栄治を擁する京都商と対戦、2-1で投げ勝っている。

 明石中時代の甲子園での成績は春・夏合わせて6回出場して15勝5敗、完封勝利8(内ノーヒットノーラン2)、先発全員奪三振3回、奪三振203個以上。打ち込まれて負けたケースはほとんどなく、失点はほとんど味方の失策や相手のスクイズによるものだった。先の1932年夏の準決勝・松山商業戦でも、1回先頭打者に安打を浴びたのち、2つの内野エラーとパスボール、さらに四球とスクイズで2点。3回は1死後、投前内野安打の走者を牽制、それを一塁手が取れず(エラー)、一気に3塁を陥れられた後に犠牲フライで加点されたものである。ただ優勝には一度も恵まれず、また松山商業には3度対戦して3度とも退けられている。

 明石中学卒業後は慶應義塾大学に進学し、野手に転向。3年生と4年生のときに主将を務めた。東京六大学野球通算85試合出場し284打数66安打、0本塁打、打率.232。大学卒業後は貿易会社「大正興業」に勤務する傍ら、社会人野球チーム「全高雄」に所属し野球を続けた。

 1941年に結婚したが、1942年に応召。中国戦線へ出征し、翌年の7月23日、中国軍の奇襲攻撃で額に銃弾を受けて戦死。奇しくも、明石中学、慶應義塾大学でチームメイトであった中田武雄戦死の1日後であった。戦死当時、妻は妊娠中であり、後に無事出産を果たすが、楠本自身は子供を目にすることはなかった。

 広い肩幅のいかにも頑丈そうな体を持ち、投球フォームは振りかぶって足を上げるとそのまま上半身を後ろにひねって打者に背中を見せる、野茂英雄により有名となったいわゆるトルネード投法であった。この投球フォームにより、球の出所がわかりづらい上、ストレートは速い上に重く、変化球はカーブ、ドロップ、シュートと、当時としては多彩。さらに学年があがるにつれて制球力が付くとこれらを内外角に投げ分けて対戦校は大いに手を焼いた。明石中で楠本の球を受け続けていた福島安治捕手は、楠本の剛速球で指が変形し「銃の引き金が引けない」という理由で兵役を免れたという。

 1943年7月23日死去(享年28)


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