中田武雄


中田武雄

中田武雄(なかたたけお 1915年生)
 [野球選手]


 兵庫県出身。赤石尋常高等小學校時代に全国少年野球大会の優勝投手となる。しかし、明石中学野球部入部後は1年上のエース楠本保の控えに回り、俊足巧打ぶりを見込まれて中堅手として活躍した。

 4年生の1933年春の選抜大会頃から、楠本の体調が思わしくなくなったため、リリーフとして登板する機会が増えた。そして、その年の夏の大会では、2回戦の水戸商業戦で楠本との継投でノーヒットノーランを達成。続く準々決勝の横浜商業戦では7回から登板し3イニングで7奪三振という快投を見せた。すでに楠本の体調不良を感じ取っていた明石中学野球部長の竹山九一は、準決勝の中京商戦での中田先発を決断した。その中京商戦は延長25回の大熱戦となり、中田は247球を投げて完投したがサヨナラ負けした。

 翌年、中田は楠本の後を受けてエースとなったが、春の選抜大会には出場したものの準々決勝で敗退、夏の全国大会は兵庫予選の決勝で神戸一中に延長20回サヨナラで敗れて出場できなかった。この奇縁ともいえる出来事で「延長に泣く投手」と呼ばれた。

 卒業後は慶應義塾大学に進学し、再び楠本とチームメイトとなった。大学中は45試合に登板して12勝12敗の成績を残している。中田はまた、就職も楠本と同じ台湾・高雄の貿易会社「大正興行」で、三度楠本と同じ人生の軌跡を歩んだ。

 1942年2月に陸軍に入営。翌1943年に南方戦線へ動員された。中田を乗せた水上機母艦「日進」は、7月22日ソロモン諸島のショートランド北水道を航行中、米軍機の爆撃を受けて沈没。生存者によれば、中田は負傷しながらもしばらくの間波間を泳いでいたというが、そのまま帰らぬ人となった。奇しくも、明石中学、慶應義塾大学でチームメイトであった楠本保戦死の1日前であった。

 1943年7月22日死去(享年28)


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