菱田春草


菱田春草

菱田春草(ひしだしゅんそう 本名:菱田三男治 1874年9月21日生)
 [画家]


 1874年、長野県に旧飯田藩士の菱田鉛治の三男として生まれた。1890年、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。春草は美校では横山大観、下村観山1学年後輩にあたる。美校での師は狩野派の末裔である橋本雅邦であった。春草は大観、観山とともに、当時美校校長であった岡倉天心の強い影響下にあった。過激な日本画改革論者であった岡倉天心には反対者も多く、1898年、岡倉は反対派に追われるように東京美術学校校長を辞任した(反対派のまいた怪文書が原因だったとされる)。当時、美校の教師をしていた春草や大観、観山も天心と行動を共にして美校を去り、在野の美術団体である日本美術院の創設に参加した。

 その後、春草は1903年には大観とともにインドへ渡航。1904年には岡倉、大観とともにアメリカへ渡り、ヨーロッパを経て翌年帰国した。1906年には日本美術院の五浦(いづら、茨城県北茨城市)移転とともに同地へ移り住み、大観、観山らとともに制作をした。しかし、春草は眼病(網膜炎)治療のため、1908年には東京へ戻り、代々木に住んだ。代表作『落葉』は、当時はまだ郊外だった代々木近辺の雑木林がモチーフになっている。1911年、満37歳の誕生日を目前にして腎臓疾患(腎臓炎)のため死去した。

 春草、大観らは、1900年前後から、従来の日本画に欠かせなかった輪郭線を廃した無線描法を試みた。この実験的画法は世間の非難を呼び、「朦朧体」(もうろうたい)と揶揄された。『菊慈童』などが「朦朧体」の典型的作品である。1907年には「官」の展覧会である文展(文部省美術展覧会)の第1回展が開催されたが、この時出品した、色彩点描技法を用いた『賢首菩薩』も手法の革新性のため、当時の審査員には理解されなかった。晩年の『落葉』は、伝統的な屏風形式を用いながら、空気遠近法(色彩の濃淡や描写の疎密で、遠くの事物と近くの事物を描き分ける)を用いて日本画の世界に合理的な空間表現を実現した名作である。このように、伝統的な日本画の世界にさまざまな斬新な技法を導入し、近代日本画の発展に尽くした画家で、岡倉天心もその早すぎた死を惜しんだ。大観は、後に日本画の大家と褒められると、「春草の方がずっと上手い」と答えたという。また「(春草が)生きていれば自分の絵は10年は進んだ」とも残している。

 1911年9月16日死去(享年36)


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